水のコラム
あの日、「水をください」と願った人々へ。広島の水と、受け継がれる記憶

毎年8月6日午前8時15分——広島では多くの人が静かに祈りを捧げます。
原爆が投下されたその時刻には平和の鐘が鳴り響き、遺族代表とこども代表が鐘をつきます。
未来を担う子どもたちが平和への誓いを世界へ発信するこの時間は、80年以上がたった今も、この街に受け継がれています。
私たちは日々、水回りのトラブルを解決し、安心して水を使える暮らしを支えています。
普段は意識することの少ない「水が使える日常」ですが、それは決して当たり前ではありません。
当時の記録をたどると、原爆によって広島の水道設備は壊滅的な被害を受け、多くの人が水を口にすることさえ難しかったことがわかります。
「水をください」という被爆者の声や、原爆で失われた日常を後世へ伝えていくこと。
それもまた、平和を語り継ぐ大切な営みです。
その歩みを40年以上にわたって続けたのが、広島の歴史研究家・森重昭さんでした。
自身も被爆者でありながら、原爆で亡くなった人々のことを生涯をかけて調べ、記録し続けた方です。
その活動は今、妻の佳代子さんへと受け継がれています。
この記事では、原爆によって広島の「水」に何が起きたのか。
そしてその記憶をつなごうとした人たちの歩みについて、水に携わる立場からたどってみたいと思います。
原爆が奪ったものは、命だけではなかった

1945年8月6日の朝、爆心地から約500メートルの場所に、広島市の水道を担う水道部の庁舎がありました。
原子爆弾が炸裂した瞬間、庁舎は一瞬で壊滅し、出勤していた職員が犠牲となります。
爆心地から2.8キロほど離れた牛田(うした)水源地でも、木造の建物はほとんどが全壊。
レンガ造りの建物でさえ、屋根や扉が爆風で吹き飛ばされました。
被害は、施設の倒壊だけにとどまりません。
市内に張りめぐらされた水道管は、いたるところで破損。広島市水道局の記録によれば、当時の漏水率は実に80パーセントにまで至ったとされています。
送り出した水のほとんどが、蛇口にたどり着く前に地中へ漏れ出してしまう状態でした。
壊れた給水栓からは水が流れっぱなしになり、いくら送水しても市内の需要には追いつきません。
街のあちこちで火災が起きても、消火にまわせる水もない。
人々が水を必要とする中、水を届ける仕組み自体が失われていました。
水道部で働いていた職員も、その多くが被害を受けました。
当時186人いた職員のうち、83人が原爆により命を落としています。
(参照:原爆と広島市水道|広島市水道局)
「水をください」という言葉が語り継がれる理由

被爆した人々の証言や手記には、「水をください」という訴えが数多く残されています。
全身に大やけどを負い、激しい渇きに苦しみながら水を求めた人が大勢いました。
その声は、川べりや橋の上、焼け跡などあちこちで上がっていたと伝えられています。
ですがその渇きを満たすことは、簡単ではありませんでした。
水道は壊れ、蛇口をひねっても水は出ない。
きれいな水を求めて川へ向かったものの、そこで力尽きた人も少なくなかったといいます。
さらに当時は、「大やけどを負った人に水を飲ませてはいけない」と広く考えられていました。
ひどい出血やショック状態の人に水を与えると、かえって容体が急変してしまう――被爆の現場に居合わせた人々の、経験から来る判断だったようです。
そのため、目の前で水を求める人がいても、その願いに応えてよいものかと、多くの人が迷い、ためらいました。
実際に水を与えたところ、まもなく息を引き取った人がいたという話も残っており、応えられなかったこと、あるいは応えてしまったことを、生涯悔やみ続けた人も少なくありません。
飲みたくても飲めない。与えたくても与えられない。
「水をください」という言葉には、そうした果たされなかった願いが込められています。
広島で1974年から続く「原爆献水」も、水を求めながら亡くなった人々に、せめて清らかな水を捧げたいという祈りから生まれた行事です。
焼け野原から始まった水道の復旧

街の大半が焼き尽くされ、水道も壊滅した広島で、それでも水を送り続けた人たちがいました。
原爆の爆風は、爆心地から2.8キロ離れた牛田水源地の電源系統を破壊し、送水ポンプを止めてしまいました。
このままでは市内への給水が完全に途絶える。
そんな状況の中、その日たまたま非番だった一人の職員が、被爆による火傷の痛みをこらえながら水源地へ向かったと記録されています。
そしてエンジン式の予備ポンプを動かし、ほかの職員とともに、市内へ水を送り続けました。
この一人の行動によって、広島市全域が断水に陥る事態はかろうじて避けられました。
広島の水道は、創設以来一度も断水していないという記録を、この日も守り抜いたことになります。
停電した電動ポンプから本格的に送水を再開できたのは、被爆から4日後の8月10日のことでした。
街にもう一度水を通すために
水源地が動いても、市内の水道管はいたるところで壊れたまま。
破れた管を掘り起こして直し、漏れを止め、一日でも早く水を届けようと、自らも被災した職員や技術者たちが復旧に走りました。
水が戻るということは、飲み水を確保でき、煮炊きができ、体を洗えるということ。
水道の復旧は、そのまま街の復興の第一歩となりました。
蛇口から水が出る。その当たり前を取り戻すために力を尽くした人たちがいたことを、同じ水に携わる仕事をする者として、心にとどめておきたいと思います。
(参照:命の水|広島市水道局)
森重昭さんが残した「命の記録」

原爆の記憶を未来へ伝えようとした人々の中でもその名を語り継ぎたい一人が、冒頭でも触れた、森重昭さんです。
森さんは1937年に広島市で生まれ、8歳のとき、爆心地から約2.5キロの地点で被爆しました。
自らも被爆者として戦後を生きる中で、地元の原爆被害について調べ始めることに。
きっかけは、自分が通っていた己斐(こい)国民学校の校庭で、警防団が2万人もの遺体を焼いたという証言でした。
その数が本当に正しいのか真相を確かめたい――そんな思いから、会社勤めのかたわら、休日を使って被爆の実態について調べていきました。
被爆から、およそ30年後のことです。
被爆した米兵捕虜の存在
のべ1000人にものぼる聞き取りを重ねる中で、森さんはある事実にたどり着きます。
原爆で亡くなった人々の中に、捕虜となっていたアメリカ兵がいたということ。
撃墜された米軍機の乗員が、広島で拘束されたまま被爆し、命を落としていました。
その事実は、長いあいだほとんど知られてきませんでした。
そこで森さんは私財を投じ、国内外の膨大な資料をたどって遺族を探し出しては、慣れない英語で手紙を書き続けました。
相手はかつての「敵国」の兵士。
それでも森さんにとって、国籍や立場は関係ありませんでした。
「私が調べたのは、敵国の人ではありません。人間を調べたのです」
のちに国連本部で語ったこの言葉のとおり、森さんはただ、一人の人間として彼らの最期に向き合い、その家族へ事実を届けようとしました。
そして長い年月をかけ、被爆死した12人の米兵を特定し、その全員の遺族へ事実を伝えることができたそうです。
街角に掲げた、小さな慰霊の銘板
森さんの活動は、名前を調べるだけでは終わりませんでした。
広島市中区、爆心地から約450メートルのビルの外壁に、いまも一枚の銅製の銘板があります。
かつてこの場所には中国憲兵隊司令部が置かれ、米兵捕虜が収容されていました。
刻まれているのは、ここで被爆した米兵たちの名と、焼け落ちた収容先の写真。
これは、1998年に森さんが私費を投じて設けたものです。
記録に埋もれ、名前さえ知られてこなかった命を、確かにこの地に生きた一人の人間として悼む。
森さんは生前、この銘板の前で毎年欠かさず手を合わせ、米兵たちを慰霊し続けていました。
「僕がやらねば誰もやる人がいないから」と、繰り返し語っていたそうです。
生涯、その歩みを止めなかった
こうした森さんの活動は、やがて国の枠を越えて広く知られるようになります。
2016年、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れたバラク・オバマ大統領は、平和記念公園での式典にて森さんと面会しました。
言葉を交わしたあと、二人が固く抱き合うその姿は、世界中に報じられています。
晩年になっても森さんの姿勢は変わらず、平和学習に取り組む子どもたちのもとへ足を運んでは、子どもたちと言葉を交わし、平和への思いを伝えていく。
2026年3月、88歳でこの世を去るまでその歩みが止まることはありませんでした。
そして同じ年の7月、森さん自身の名もまた、原爆死没者名簿に書き加えられました。
この名簿は、8月6日の平和記念式典で原爆慰霊碑に納められます。
かつて森さんが一人ひとりの名を掘り起こしてきたように、その名もまた、この街の記憶として確かに刻まれました。
当たり前に水が出るということ

蛇口をひねれば水が出る。
それは、暮らしを支えるだけではありません。
命を守り、衛生を保ち、安心して毎日を過ごせるということでもあります。
私たちが当たり前だと思っているこの日常も、決して当たり前に手にできたものではありませんでした。
80年前の広島では、水を届ける仕組みそのものが失われ、多くの人が一杯の水を求めながらも、その願いを叶えられずにこの世を去りました。
私たち水道職人は、水回りのトラブルに向き合う仕事を通じて、暮らしに欠かせない水を守っています。
だからこそ、水のある日常のありがたさや、それが失われたときに何が起こるのかを、これからも伝えていければと考えています。
8月6日という日に、蛇口から流れる水に目を止め、その重みや平和のありがたさについて考える、そんなきっかけにしていただければ幸いです。
森重昭さんから受け継がれる思い
原爆によって失われたのは、多くの命だけではなく、水が当たり前に使える日常でもありました。
森重昭さんは、その日を生きた一人として、命の記憶を未来へ伝え続けました。
私たちも、水を守る仕事に携わる者として、蛇口から水が流れる日常のありがたさと、平和の尊さを伝え続けていきたいと考えています。
※本記事に掲載している森重昭さんご家族の写真および森佳代子さんの写真は、森重昭さんのご家族からご提供いただいたものです。
※本記事でご紹介している方法は、一般的な対処法の例です。
作業を行う際は、ご自身の状況や設備を確認のうえ、無理のない範囲で行ってください。
記事内容を参考に作業を行った結果生じた不具合やトラブルについては、当社では責任を負いかねます。
少しでも不安がある場合や、作業に自信がない場合は、無理をせず専門業者へ相談することをおすすめします。
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